誰しもが、どうしてここに生まれたんだろう?
どうしてこの人たちが自分の両親なんだろう?
と思うことが一度や二度はあるのではないでしょうか?
それにプラスして、どうして葬儀屋さんの娘として生まれたのだろうか?と自問することがありました。
大人になってから、お嫁に来た母に聞いてみた。両親はお見合いだったらしい。
私:私にはそのチョイスはなかったわけだけど、
『どうしてよりにもよって
葬儀屋さんにお嫁に来ることにしたの❓』
母は飄々と
『私は岐阜の山の出身で葬儀屋さんなんて知らなかったし、そもそも表具屋さんって聞こえたから、、、
商売屋さんだってことは知ってたけれどね・・・』
葬儀屋と表具屋
確かに似ているといえば 似ているかもしれない。
が、まったくもって別の職業である。
そんな、母は全くの素人から私が言うのもなんだが、立派な葬儀屋さんの女性、
そして私の目指すべき葬儀屋の先輩としてすっかり馴染んでいる。
さて、私はなぜ葬儀屋さんに生まれたのだろうか?
この答えが出ているというわけではないのだが、
私が生きてきた中で、苦しくてもがくような困難に直面するたびに
葬儀屋さんである自覚と覚悟に目覚めていくことになってきたような気がする。
このニュアンス皆さんにはピンと来ないかもしれないのだが、
人生の終焉を扱う葬儀という仕事 綺麗な言い方はこう
実際は、死を扱うお仕事。
しかし死は、生の一端の最終地点であり、生、『生きる』を無視しては成り立たないのである。
想像してみて欲しい
登山をする。 登山を好き好んでする人もいれば、仕方なく登ることになった人だっているだろう。
5合目 7合目と来て 苦しくて もう止めたくて それでも前に上に向かって歩くしか方法がない。歩く以外には山の頂上に行く方法はない。
そして、自分の足でその一番上に立った時、その絶景に感動することはもちろんのこと、
登り切った自分
やりきれた自分を前より少しだけ好きになっていたり、
自分の力をこれまで以上に感じたり、
エネルギーに満ち溢れていたりと
大きなご褒美をもらうのではないだろうか?
言葉では説明はできないが、この山を登れた自分なら日常の些細なことなんてなんてことないなみたいな感覚や、
この山を登れたんだったら、他の事だってチャレンジできるのかもしれない...
というように、登った苦労や疲労やネガティブな気持ちを、他のエネルギーに転換するチャンスをもらえていると考える。
それは私にとって、『生きている生命』『自分の持っていた潜在能力の開花を喜ぶ』瞬間だと考えるのである。
そして私は深く深く、死を適切に扱うには今ある『生きる』に着目していくことなんだろうな・・・・・。と思いを馳せる。
どんな人も、生きたようにしか死ねない
このことを知っていれば、毎日の人生を丁寧に送ることに意識が向かっていくはずである。
葬儀屋さんに生まれた私は、少なくとも死のことを誰よりも考える毎日をいただいた。
そしてそれは、私にとって毎日を『生ききる』ことに他ならないのである。
皆さんは、今日どんな一日を過ごしますか?
私は今日も最後の日だったら と少しだけ死を思い やはり最高の一日にしてみようと決めるのです。