お葬式は自分の原点に出会う場所

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 葬儀社として私情を押し殺せないときだってあります。セルカホール甚目寺がOPENしたのは2005年のこと。

セルカホール甚目寺が近隣の反対者もなくスムーズに流れたのはこの方の全面的なバックアップがあったからこその事なのです。

その方が旅立ちました。そして今日がお葬式でした。

コロナ後のお葬式で会葬者全員がお花を捧げたお式は久しぶりです

 地域の人々にとって、葬儀会館がやってくるのは正直に『ウェルカム』ではないのは知っています。

それでも、私たちは、甚目寺市との深いご縁があって、葬儀社である『かとう』だからこそいいのではないか?!と甚目寺市から土地を譲り受けることになりました。

今、駐車場の中にある、『縁』の石碑のある公園はかつて

『施設のない火葬場』

としてその土地に縁のある皆さまが荼毘に付してきたのです。

市からその場所の購入の提案があった時、私は

『駐車場としては利用してはいけない』

そう私の内側が言ったのを覚えています。

その土地を鎮め、祈りを捧げた後

『集える緑の場』としてお守りしていきたい。それが私の心の声でした。

それを実現するには???

実現に向け、相談をしたのが今日 荼毘に付された地元の親分でした。

(かつてお茶を飲みながら話をした時に、ご自分でいじめっ子から皆を守る親分だったのだとの話を聴いておりましたので…。)

愛をこめて『親分』と呼ばせてもらいます。

野辺送りの場は集いの場となりました

当時の私は30代の前半、その方は60代でした。知識もない、段取りも知らない当時の私、

あったのは『志』だけ、

そんな私の言葉に耳を傾けてくれた方。

もともとのイメージは暗く、草が生え、それでもどうすることも出来なかった土地は、地域のご寺院の皆さまの力を借りながら、地元の人々に支えられて、無事に小さな集いの緑の場と生まれ変わりました。

緑の場の横で、会長が毎年『みかん』を育てています。

それから何かある度に、親分のところに相談に伺いました。

親分は私を子分として受け入れ、それはそれは可愛がってくれました。娘でもなんでもない私を、励まし、知恵を与え、聴き、笑い、前へ前へと押し出してくれました。

その方が旅立ちました。

改めてセルカホール甚目寺を眺めました。歩きました。

涙が溢れてきました。

親分、

親分は家族を愛するように地域を愛し、地域のために生きた人生でしたね。

30代の私が親分と繋がれたのはその『地域への愛』であったこと。今しっかりと思い出しだしましたよ。

地元で良く通ったお料理屋さんの『とりかわ』お声かけしたら快く作ってくださいました。 とりかわ と お酒  まさに親分です

ここ最近の私ときたらどうでしょう。

『こうしたい』の思いを『思考』という賢い言い訳に負け

『できない、やらない言い訳』の連続。

いったいあの時の私はどこに行ってしまったのでしょう。

いつかまた、そちらで親分にお会いできたら、親分に聴かせることのできる私の人生後半ストーリー刻んでいきますね。

悲しみの曇り空のようです

心からご冥福をお祈りいたします。

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“結んだこころ”に寄り添う葬儀を。稲沢市・一宮市・清須市のの【かとう】セルカホールです。

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この記事を書いた人

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加藤 京子

愛知県 稲沢市の葬儀社で生まれ3代目としてお葬儀の仕事に従事して25年になります。私が最も心がけているのは『皆様の生きるを応援すること』です。良いお葬儀とは何か?皆さまに寄り添いお手伝いしています。